2009年8月2日日曜日
歴史を語り継ぐ
【写真】一本足鳥居
(爆風で爆心地側の片方が倒壊。今も一本足で立っている)
長崎を語る上で避けては通れない
「1945年8月9日11時2分」
長崎は世界で2都市しかない
原爆が投下された都市の1つである。
原爆慰霊の日を来週に控えた8月の日曜日、
原爆資料館に行ってきた。
館内ガイドに案内をしてもらったのだが
ガイドの方は、実際に被爆体験をされた77歳のおじいさん。
とても貴重な出会いをいただいたので
今日は、おじいさんの話を書き残したいと思う。
館内の案内を熱心にしてくれたが
自分の話はできるだけ避けるように
努めて客観的に案内をされているのが印象的だった。
客観的な案内をされている理由は2つあったと後でわかったのだが、
俺はご自身の体験が聞きたかった。
おじいさんの負担にならないように言葉を選びながらも質問をした。
おじいさんは中学3年生の時、1945年8月9日を迎えた。
当日、爆心地から3キロ離れた工場で
勤労奉仕をしていたので助かったそうだ。
衝撃音と同時に空が真っ赤になり
その数秒後に真っ暗になった、という。
家は爆心地から半径1キロ圏内にあり
家族は疎開していた末の弟を除いて全員亡くなられた。
地獄のような光景…
印象深い言葉が2つ。
おじいさんはガイドを最近始められた。
原爆後も長崎にずっと住んでいたが、
ガイドの存在は最近まで知らなかった。
なぜなら、
『自分の周りの人間もそうだが、
あの体験・記憶を忘れるようにしてきたから』
もう1つ。
『歴史は必ず風化する。
体験した自分でさえ、
(これまで意図的に記憶を消そうとされてきたのだろうが)
当時の記憶がおぼろげになってきている。
そんななか、体験者の中には、自分が体験していないことをさも体験したように
話したり綴ったりしている人がいる。それがとても残念』
『だから、できる限り、自分が経験した事実だけを伝えたい』
体験者の中には自分が体験したことだけではなく
周囲で起きたことを語り継ごうという気持ちで
「違う人の話」を作ったりする人もいるだろう。
また、時が経てば記憶が部分的に誇張されたり
恐ろしい出来事を脳内で消去したり
いろんな意味で事実から遠ざかることもあるだろう。
歴史を語り継ぐ難しさを思った。
ひとしきり話を終えて、別れ際。
おじいさんが最後にポツリと
亡くなった弟さんの話をしてくれた。
『8月15日の終戦の翌日。
中学1年生だった弟は苦しみながら死んでいった。
最後に弟はこう言った』
『兄ちゃんは死ぬなよ』
おじいさんは子供や孫に恵まれ今日を迎えている。
でも、いつまでも忘れることのないあの日がある。
今日のひとこと
黙っていても、歴史は語り継がれない。
黙っていたら、歴史は造り替えられる。
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