2009年8月9日日曜日

想像することを決して止めない

【写真】長崎原爆慰霊式典


64回目の原爆忌。

突っ立っているだけで大量の汗が吹き出る猛暑。
64年前の今日もこんな暑い日だったという。


11時2分、長崎の鐘が鳴り、黙とう。

平和公園を散策し、上映していたドキュメンタリーを鑑賞。
苦しい一日。


家族全員が原爆の犠牲になり、
最愛の夫に今年の1月に先立たれたおばあさん。
何度もハンカチで涙を拭っていた姿が頭から離れない。




今日思ったこと

・なぜ太平洋戦争は勃発したのか
・原爆訴訟が今なお全面解決を見ないのはなぜか
・若者世代は二度、被爆地を訪れたほうがいい
(中高時代の修学旅行で訪れたことのある人が多いと思うが、
 20代で再訪したらまた新しい見識を得られると思うから)
・30年後の我が国の核認識はどうなっているのだろうか
・原爆投下を戦争終結の手段として肯定している
 アメリカの教育、歴史観とどう向き合うか


・アメリカ現役大統領が64年が経過した今も
 広島・長崎を訪問していないという事実

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20090730095514179_ja



戦争がはじまったのはなぜ?とか
アメリカが原爆を肯定するのはなぜ?とか
そりゃ世間一般で言われていることは知っているけれど


それは答えではない。


現実を目の当たりにすることで、根本的な問題に立ち返ることができた。
すごく大事なことのような気がする。


思考を止めるな
想像することを決して止めるな

そう自分に言い聞かせた8月9日。



今日のひとこと

「生きる勇気と死ぬ勇気の二者択一を迫られる」

2009年8月8日土曜日

夏、島、海!!!






















【写真】 高島の海


夏がやってきた。
長崎の夏はなんといっても海だ。


陸続きにも素晴らしい海岸がたくさんあるらしいが
長崎近海の「島の海」は最高だ。


長崎市は三方を山に囲まれ
一方は海に面している。

長崎は昔は「深江の浦」と呼ばれていたようで
なるほど長崎港は深い入り江の奥に位置する。
天然の要塞といえる都市だ。
前にも述べたが、
やはり鎖国制度があってこそ栄えた都市と言える。
























さて、その深江の浦から
フェリーで出港すると
まず見えるのが入り江の両岸にある三菱重工の造船場。

三菱通りなるものまであるから、
長崎と三菱は切っても切れない関係にある。






















その入江から抜け出すと大小幾つもの島が見えてくる。

その一つが「伊王島」である。
フェリーでわずか19分。


ここはGWに彼女と初めて訪れたのだが、
その海と空の青さに感動した。






















妹が来た時も連れて行ったが
長崎の魅力を知ってもらうに最適な島と思っている。

往復フェリーと温泉利用券付で980円。格安。
サイクリングやゴルフ、テニスもできて
一日遊べる無敵のレジャー島だ。
毎週末行きたくなる。

























さらにその伊王島からフェリーで10分、
そこには三菱炭鉱で有名だった「高島」がある。























この島の海は日本の水浴場88選にも選ばれている。
その高島に会社の仲間と行ってきた。


海で騒いで、サイクリングで島を一周して夏を満喫★




























島の魅力は自分たちの生活圏内から完全に抜け出して
いい空気を吸えることだと思っている。

心から自由になれる。


長崎だと、わずか20分そこらで
そんな隔絶した自由な場所に行くことができる。

長崎の特権です。




今日のヒトコト

真黒に日焼けしたのは高校時代以来だ。


2009年8月2日日曜日

歴史を語り継ぐ


【写真】一本足鳥居
(爆風で爆心地側の片方が倒壊。今も一本足で立っている)



長崎を語る上で避けては通れない
「1945年8月9日11時2分」

長崎は世界で2都市しかない
原爆が投下された都市の1つである。



原爆慰霊の日を来週に控えた8月の日曜日、
原爆資料館に行ってきた。

館内ガイドに案内をしてもらったのだが
ガイドの方は、実際に被爆体験をされた77歳のおじいさん。



とても貴重な出会いをいただいたので
今日は、おじいさんの話を書き残したいと思う。

館内の案内を熱心にしてくれたが
自分の話はできるだけ避けるように
努めて客観的に案内をされているのが印象的だった。


客観的な案内をされている理由は2つあったと後でわかったのだが、
俺はご自身の体験が聞きたかった。
おじいさんの負担にならないように言葉を選びながらも質問をした。



おじいさんは中学3年生の時、1945年8月9日を迎えた。
当日、爆心地から3キロ離れた工場で
勤労奉仕をしていたので助かったそうだ。

衝撃音と同時に空が真っ赤になり
その数秒後に真っ暗になった、という。

家は爆心地から半径1キロ圏内にあり
家族は疎開していた末の弟を除いて全員亡くなられた。

地獄のような光景…



印象深い言葉が2つ。

おじいさんはガイドを最近始められた。
原爆後も長崎にずっと住んでいたが、
ガイドの存在は最近まで知らなかった。

なぜなら、
『自分の周りの人間もそうだが、
 あの体験・記憶を忘れるようにしてきたから』



もう1つ。

『歴史は必ず風化する。
 体験した自分でさえ、
(これまで意図的に記憶を消そうとされてきたのだろうが)
 当時の記憶がおぼろげになってきている。
 そんななか、体験者の中には、自分が体験していないことをさも体験したように
 話したり綴ったりしている人がいる。それがとても残念』

『だから、できる限り、自分が経験した事実だけを伝えたい』



体験者の中には自分が体験したことだけではなく
周囲で起きたことを語り継ごうという気持ちで
「違う人の話」を作ったりする人もいるだろう。

また、時が経てば記憶が部分的に誇張されたり
恐ろしい出来事を脳内で消去したり
いろんな意味で事実から遠ざかることもあるだろう。

歴史を語り継ぐ難しさを思った。





ひとしきり話を終えて、別れ際。
おじいさんが最後にポツリと
亡くなった弟さんの話をしてくれた。


『8月15日の終戦の翌日。
 中学1年生だった弟は苦しみながら死んでいった。
 最後に弟はこう言った』
 
『兄ちゃんは死ぬなよ』



おじいさんは子供や孫に恵まれ今日を迎えている。
でも、いつまでも忘れることのないあの日がある。





今日のひとこと

黙っていても、歴史は語り継がれない。
黙っていたら、歴史は造り替えられる。